アルゼンチン・コルドバ生活とその後

2018年4月から2年間、アルゼンチン生活。中南米生活、2ヶ国目。2016年から合計4年の海外赴任を終え、2020年5月10日帰国。

弔問 その3

1️⃣福岡まで戻った私に何ができたか。


彼女の話を聞いてあげること

一緒に泣いてあげること


だった。


2️⃣でも、私の経験上、

友達が来てくれると、踏ん張れる。


泣き崩れてしまうが、何とか最後まで

しっかり見送ろうと頑張れる。


それが友達パワー😊


3️⃣

「貴方は1人じゃない。

たくさん友達がおるんやけん、

これからは、友達を頼れ。」


と伝えた。


私にできることは、それぐらいだった。


生きる気力を失った友を遠くからだが、 

私なりに支え続けたいと思う。


それが私に与えられた使命。

弔問 その2

1️⃣悪魔的言動から脱皮して、

普通⁇の考え方ができるようになったのは、

全て友人たちのおかげ。


特に彼女は、私とよく似た環境に育ち、

考え方も近かった。


そして、

同じくらい喧嘩早かった😅


ただ言動に私のような悪魔的なところは、

全くなく、いつも私を諌めてくれた。


クラスで孤立しそうになった時も、

彼女が助けてくれた。


私のことを理解してくれる

数少ない大事な友である。


「こういう時に、飛んでいって慰める、

そばにいてあげるのが友達じゃないか。

今こそ、恩返しをせねばならない。」


と思い、帰省した。


2️⃣お父さん、お姉さんの時には、

まだ彼女には、寄り添ってくれる家族がいた。


しかし、今回はもう誰も彼女に 

寄り添える家族がいない😩


甥っ子が1人いる。

お姉さんの1人息子。


彼女は、その子が生まれた時から

溺愛していた。


忙しいお姉さんに代わり、

よく面倒を見ていた。


しかし、その子も、今は結婚し、

自分の家庭がある。


3️⃣親兄弟に敵うものは、

この世にないことは分かっている。


長年の友達であろうが、

お互いに踏み込めないゾーンがあることも

分かっている。


でも、血の繋がっていない友達に「しか」

できないこともあると思う。


友達「にも」できることがあると思う。


4️⃣空港到着後、

まっすぐ彼女の家へ向かった。


お母さんは、家に帰りたがっていたから、

連れて帰って来たという。


お父さん、お姉さんの時も、

家に連れて帰り、家から出棺した彼女。


彼女のこだわり。


5️⃣最寄りの地下鉄駅まで、

私を迎えに出て来てくれた友。


顔を見た途端、2人で抱き合い号泣😭


私は「長いこと、1人で頑張ったね」

と声をかけた。


すると、彼女は

「私が、頑張ったんじゃない。

お母さんが、生きよう、治ろうとして

頑張ってきたの。」と言う。


「おぉ、なるほど。そういう考え方か。」

と驚いた。


長年、介護をしてきた友の言葉。


それが、

彼女を支えてきたんだなぁと思った。


「美学」を感じた。


私が彼女の立場だったとして、

そういう考え方ができるだろうか。


彼女を心から尊敬した瞬間だった。

弔問 その1

旅の話は、中断中だが、

ちょっと書き残しておきたい。


今日は、6/30(日) 福岡に帰省中。


土曜日早朝、急遽福岡に戻ってきた。

友人のお母さんの訃報を聞いたからだ。


土曜日早朝の羽田空港


朝イチの飛行機に乗る。

お店は開いていないし、

まだ人も少ない。


自宅から羽田空港までの

経路・時間を確認せずに

飛行機のチケットを買ったため、

愛方に空港まで送ってもらう羽目になった😩


ごめんなさい🙏


1️⃣金曜日早朝


友人本人から LINE連絡があった。


「昨日(木曜日)お母さんが

病院で息を引きとった」と。


2️⃣彼女は、高校の同級生。40年来の悪友。


そして、彼女のお父さんは、

私の高校2年・3年時の担任であった😅


お父さん、お姉さんの2人が難病で亡くなり、

お母さんと2人、頑張って生きてきた彼女。


ここ数年は、お母さんが要介護になり、

自宅での介護と仕事で大変そうだったので、

私もLINEで話すだけになっていた。


お母さんの介護は大変だったと思うが、

それが彼女の生きる支えになっていたのだ

と思う。


弱音を吐いたことがない彼女が、

金曜日に泣きながら電話をしてきた。


私の「大丈夫か?」という問いかけに

「もう大丈夫じゃない‼︎」と答える友。


そりゃぁ、私も帰らずにはいられない。